鄭周河(チョン ジュハ)写真展 「奪われた野にも春はくるか」

鄭周河写真展関連の情報をお知らせしていきます。

2月18日の鄭周河さんトーク部分をアップします

高麗ブログ

こんにちは。
韓国からきた鄭周河と申します。お目にかかれてうれしいです。
今回は日本で10回目の写真展になります。
10回目にもかかわらず、毎回緊張します。
こうして皆さんがとても澄んだ眼差しで私の作品を見て下さり話を聞こうとして下さるからです。

今回の写真展とギャラリートークには今までと違う特徴があります。
皆さんご存知のとおりこの写真展のタイトルは「奪われた野にも春は来るか」です。この作品は2011年11月から2012年2月までに撮ったものをまとめたものです。これ以後も、撮影をやめたのではなく継続して福島を訪れて撮影をしています。多くの方が不思議に思われるかもしれません。なぜ私が継続して福島に関心を持ち制作するのか、のちほどお話しいたします。そこで今日はこのギャラリートークで皆さんがご覧の「奪われた野にも春は来るか」というタイトルの作品もお見せしますが、このたび初めてそれ以後の2013年から2016年までに撮り続けてきた作品を公開しようと思います。作品をご覧になって私がこれまでの福島をどう見ているのか皆さんと深く意見交流をしたいと思います。

今日は、私のことを全くご存知ない方もここにいらっしゃると思います。私の作品を大きく3つに分けておみせします。まず初めに私が「奪われた野にも春は来るか」という制作をする前には私がどういったものに関心を持って制作をしてきたのか。そして「奪われた野にも春は来るか」の99枚。そしてその後に私が福島を取り続けてきた未発表の作品をお見せいたします。

私の紹介と私が福島に行くことになった理由については今こうして皆さんがご覧になっているように通訳を通してお話ししていると時間がかかるために、通訳の方に前もって準備していただいたものを皆さんに読んでいただきます。その後でまず私の「奪われた野にも春は来るか」以前の作品を見ていただいて質疑応答、そして後半部に進みたいと思います
。紹介していただいてる時にスライドをお見せすると説明と写真が合わないこともあるので作品のスライドはこのあとにお見せします。

(鄭周河さん紹介文朗読)
私は1958年、韓国インチョンに生まれました。大学時代写真科に在学中、偶然通りかかった「恵生院(ヘセンウォン)」という精神障害者の施設に出会います。地域への奉仕のつもりで週末手伝いに通うようになり、夏休みはひと月ほどそこで寝泊まりしました。当時、そこには70人ほどの人が入所していましたが、職員は三人でした。通い初めて数ヶ月がたったころ、彼らに「お前は何者だ」と聞かれ、「写真科の学生だ」と答えると彼らは「なぜ自分たちを撮らないのか」と言うのです。カメラを持っていくことは考えていなかったのですが、彼らが積極的に自分をさらけ出す姿をカメラで撮り始めました。それが「恵生院/ヘセンウォン」の作品です。
この人たちはいったいなんなのか。心の病とはなんなのか、なぜ自分ではないのか、と悩み、自分がいかに無知であるかを知るにいたりました。写真の技術的なことよりも、まずは人の内側を学ばなければとも考えました。
通っていた大学がキャンパス拡張のためにヘセンウォンを取り壊すということになり、それに抗議して大学を中退し、ドイツのケルン大学の哲学科に留学しましたが、自分にはやはり写真だという考えにいたり写真科に転科しました。哲学は難しすぎて、あのまま続けていたら、ドイツから帰れなかったと思います。

ケルンでみたドイツ社会はシステムが整い安全で、みな礼儀正しく、老人たちもおしゃれでした。けれども、ある程度時間が経つと、ドイツ社会でも実はそんな老人たちが寂しい思いをしていることがわかってきました。人間関係において孤立していることが見えてきたのです。それはただ通り過ぎて行く人にはわかりません。暮らしてみて初めてわかることでした。「写真的暴力」という作品がこの当時のものです。

ドイツで8年学んだあと、韓国に戻り、根源に立ち返る意味で、96年から98年にかけて大地をテーマにした「大地の声」のシリーズ、98年から2002年に水をテーマにした「西方の海」のシリーズを制作しましました。次に火をテーマに何をしようか考えていたときに、偶然、西方の海を撮影中に韓国の霊光(ヨングァン)というところにある原子力発電所に出会いました。そして私は実際の火自体ではなく、火をつくりだす装置としての発電所を撮ることにしました。何度も通い原子力発電所周辺を歩きながら思ったのですが、なにかがおかしいのです。人々は近くの海で釣りをしたり、魚をとって食べたり泳いだりして日常をすごしながら、発電所から聴こえてくる運転音のせいで眠れないと訴え、引越さなければという不安も抱えていました。不安を内に抱えながら外側ではそうでないようにして暮らしている。原子力がつくりだす火の中から不安が生まれ、人は火の内側で暮らしている。そう考えて「不」「安」と朝鮮語でそれぞれ同じ音の「火」「中」を入れて、意味を重ねて「不安—火—中」というタイトルをつけました。そして原子力は、水力や火力とは違って「内」と「外」の境界がないことに気がつきました。

 2011年3月11日、福島で地震によって福島第一原発の事故が起きました。韓国の原発周辺にすむ人々の「隠蔽された不安」を撮り続けていた私としては、すぐ駆けつけたい気持ちがありましたが、私はジャーナリストではないですし、直接的な関心は起きた事故自体ではなく、これまでも予感や兆候などに関心を持って制作してきたので動かないでいましたが、2012年3月末に世界で二回目の核セキュリティーサミットがソウルで開催されるというニュースを聞いたのです。福島で事故が起き、事故後どういう対策をしたらよいのかすら不明の状況で、核を防衛に使うための世界サミットがソウルで開かれることが決まったのです。世界の首脳が来るなら私たちも黙っていないで議論しようという立場がソウルの平和博物館にあり、私も同じように考えて準備をしていましたので、平和博物館を運営されている歴史学者の韓洪九(ハン・ホング)先生を通して、NHKのドキュメンタリー撮影で事故後3ヶ月後にすでに福島に行かれていた徐京植(ソ・キョンシク)先生の案内の元、事故後8ヶ月後に福島を訪ねることになったのでした。このとき韓洪九先生のアイディアを元に、「奪われた野にも春は来るか」というタイトルが決まりました。時間軸を越えて、場所という軸を越えて苦痛の連帯を試みようという意味を持つタイトルです。2011年の11月から2012年の2月にかけて撮った南相馬を中心とした風景が今回高麗博物館に展示していただいているその作品の一部です。韓国では核セキュリティーサミットの開催日程に合わせて、サミット会場となった同じコンベンションセンターに展示され、ソウルの平和博物館と韓国の広島と呼ばれる陜川(ハプチョン)でも展示され、そのあと日本で巡回され、こうして日本で10箇所目の展示をさせていただいています。福島は私にとってただのモチーフではありません。私自身が確認したいのです。大地を撮ろうが、海を撮ろうが、人間という存在そのものを見つめ直すということ。大地とは、空気とは、私たちにとって何なのか。人間の欲望とは何なのか。そういうことを学び続けたいのです。それが私にとっての写真です。それではこれからスライドで私の作品紹介をさせていただきます。(朗読終わり)


それでは今から私の作品を一緒にご覧ください。
まず初めに『恵生院』の写真です。この作品は1982年から1983年の2年間の作業です。
ここは恵生院という名の精神障害者収容所でした。
この恵生院は私の通った中央大学、写真学科の敷地内にありました。私はここから500メートルほど離れたところで自炊していました。そして週末ごとにボランティアで手伝いに通ったのです。夏休みにはひと月ほどここで暮らしました。スライドを始めます。

<『恵生院』スライド>

この『恵生院』は、83年までの制作で84年の6月にソウルで個展を開きました。そしてそのひと月後に大学を中退しドイツで哲学を学ぶために留学しました。

<『写真的暴力』スライド>

この作品は、ドイツで8年学んだ私の卒業制作です。ケルン芸術大学写真科を卒業しました。タイトルは『写真的暴力』です。すべて私の過ごしたケルンで撮影したものです。

1992年に韓国にもどり『大地の声』というタイトルの制作を始めました。1998年まで撮影し、1999年に発表をしたのですが、1998年から2003年に『西方の海』という制作をしました。そしてその撮影中に韓国の西側の海にある霊光(ヨングァン)という都市にある原子力発電所に出会ったのです。これが霊光の原子力発電所です。ここはすぐ隣に海水浴場があり魚も獲って食べます。

<『不安、火-中』スライド>

こうして私が『奪われた野にも春は来るか』以前にどういう仕事をしてきたかを見ていただきました。今まで日本各地でトークをしてきましたが、ここまでの作品についての質問も多くいただきました。それではこれから『奪われた野にも春は来るか』の作品を見ていただいて、皆さんからの質問を受ける時間にしたいと思います。

<『奪われた野にも春は来るか』スライド>

ここまでご覧下さりありがとうございました。いま見ていただいた作品は、99枚です。2011年の晩秋から2012年の冬までに撮影したものなので、秋と冬の情景だけです。皆さんにお分かりいただけたと思いますが私が福島を撮ったのは偶発的なものでもなく、事故が起きたから報道しようとかけつけたのでもなく、私のこれまでの制作と密接な関係があったために制作を始めたのです。

それでは皆さんからの質問をお受けしたいと思います。誠意をもってお答えしたいと思います。

(質問1)最初の『恵生院』がなくならないために大学を中退されたということでしたが、その施設はその後どうなったのでしょうか。

(鄭周河)私は82年に大学に入り84年に辞めました。そして84年8月にドイツへ行きました。私が大学を辞めた時には恵生院は運営停止状態でした。どういうことかというと、ちょうどその頃、精神障害者収容所の問題が大きく報道され、国の指示で恵生院にいた人たちはすべて全国の他の施設に分散して移されました。どうしてそうなったかというと、当時「祈道院事件」といわれたのですが、恵生院と同じような精神障害者収容所が「追跡60分」というKBS放送局(日本のNHKのような)の「追跡60分」という番組で大きく報道されたのです。 1984年のことでした。そうなったのは、恵生院にいたIさんという3姉妹がいたのですが、Iさんが妹たちと脱出してこれまであったことを雑誌のインタビューで話したのです。当時、社会的にとても大きな問題となり国が恵生院のようないくつかの「祈道院」を閉鎖して無くしました。もし皆さんがこのことに本当に深い関心をお持ちでしたらKBS放送にアクセスすれば「追跡60分」という番組についてご覧になれると思います。その後、私がドイツからもどった時、恵生院を訪ねてみましたが、建物はすでになくただグランドになっていました。これは韓国政府がこうした問題を改善したのではなくただ無くしたのでした。

(質問2)ケルンで撮られた「写真的暴力」という作品で、暴力というのは、鄭周河先生が写真を撮るということが暴力なのでしょうか、それとも撮られる人たちの感じがとても冷たいと感じたのですが、なにか民族的なもので先生が冷たい対応を感じられてそれが暴力につながるものなのでしょうか。また、バックは暗くてケルンの街の様子が全く出てこないのはどういうことなのでしょうか?

(鄭周河)これがこの写真展にいらっしゃる皆さんなのです(笑)。真摯で深い(笑)。
私が『恵生院』を終えてドイツに留学しました。ドイツでは通りで老人をたくさん見かけました。当時私は、はじめドイツという国は天国だと思いました。誰もが美しくおしゃれで通りでコーヒーやアイスクリームを食べていました。こういう社会を本当に立派な社会というんだろうと思いました。しかし、しばらく暮らしてみると、彼らが社会から孤立していることが分かってきました。たとえ経済的に余裕があっても年長者への尊敬もなく家族は解体して子どもたちは一年に一度も親に会いに来ないことを知りました。いまでは韓国もそうなのですが、当時の私としては大きな衝撃でした。
何が暴力的かという質問だったと思いますが、実は写真で何かを撮るということ自体が暴力的なことなのです。対象を同じように「盗み取る」という意味もありますし、銃で対象物を撃つようにカメラでショットして対象を掴んできます。写真の本質的な属性はこうした暴力性を帯びていると私は気づいていました。そしてまたドイツ社会で感じた社会の暴力性を孤立していく老人を撮ることで表現したかったのです。

(質問3)わたくしは詩人会議というところに所属して詩を書いております。詩人会議で鄭周河さんの記事を読みまして、ナマの鄭周河さんに会おうと思ってきました。さきほど韓国の原発風景の写真を見せていただきました。もう亡くなってしまった日本の歌手ですが、忌野清志郎という人が原発のことを歌っている歌があるんです。それがちょうど、原発があってそこで子どもたちがキラキラ泳いでいるぜ、という歌なんですね。聞いたことありますか?

(鄭周河)そういう歌手がいることは聞きましたが、そうした歌詞は知りませんでした。

(質問3つづき)そうなんです。原発のウソを勉強している市民は知っていました。高木甚三郎という人があぶないよと言って、私たちおばさんも勉強していて、あぶないからやめましょうという意思を持っていました。そうしたら小泉さんがいま2011年を見て、3つのウソを信じてたオレがバカだったと反対と言ってくれているからいいですけども。
あ、私は直接お話したかっただけです。
(会場笑、拍手)

(鄭周河) 
ありがとうございます。もし機会があればその歌を私に送ってくださればありがたいです。(笑)(その後この方は「詩人会議」を通して、鄭周河さんに清志郎の動画サイトをお伝えになりました)

(質問4)2番目のケルンの写真はご老人の写真を撮っている時、必ず雲とか空とかがバックで暗く、韓国に帰られてからの写真はそうではないのですがその違いは何なのでしょうか?そこにも意味を込めていらっしゃるのでしょうか。

(鄭周河)正直を言えば意味はありません。場所が違うだけです。(笑)さきほどもどうして背景が暗く風景がないのかと質問された方がいらっしゃいましたが、この写真は昼間に撮っています。真昼間ですが70センチの距離でフラッシュを焚いて撮っているのです。なので顔には露出が合いますが他のものすべてに露出が合わない状態になります。なのでドイツでの『写真的暴力』の背景はすべてが黒く露出が不足した状態です。韓国で撮った『大地の声』という農夫を撮影した作品は、農夫(婦)をムーダン(シャーマン)のように写したかったのです。なぜかというと農夫たちは見えない「気」を見えるものにするからです。種を大地に撒くとその種は大地にある気を受け育ち実を結びます。それを私たちが食べ、私たちの命を育みます。私たちの生を拡張するのが農夫なのです。そのため農夫の姿を生と死の境にある姿として見せようと努めました。私たちが仏さまを見上げるように上を向けた角度で撮り、焦点は無限大に合わせました。また、必ず太陽が頭上にある時にだけ撮影しました。光が上にくるので瞳がなくなります。なのでどの農夫も目はただ暗く瞳がまったく写っていません。そうしたことで農夫の姿をムーダンのように生と死の境を拡張する人のように見せたかったのです。

(司会)もう一時間がたちました。あっという間で非常に興味深い話が続いて大変嬉しく思います。ここで15分ほど休憩に入りたいと思います。その間にですね。あと一時間鄭周河さんのお話があるんですけれどもそのあとの質疑応答の質問をいま簡単にメモしていただいてお受けしたいと思います。


<後半開始>
鄭周河
それでは、『奪われた野にも春は来るか』以後の作品をごらんください。
2013に撮影した『南相馬の外に入る』という作品です。
タイトルが少々おかしいと思われるとおもいます。「外に入る」というのは変ですよね。
みなさんご存知かとおもいますが南相馬は、事故が起きた原発から20キロ地点にあり、それまでは20キロ地点までが立ち入り禁止区域でした。
2013年になって少しずつ立ち入り禁止がとけて10キロ地点の小高まで入ることができるようになったのです。
南相馬を行く度も訪れた私としては小高地区は「外」でしたが、そこに「入る」という感覚だったのです。なので『南相馬の外に入る』というタイトルにしました。

<『南相馬の外に入る』スライド>

この作品からまた人物が出てきます。この時まで私はどうしても人にカメラを向けることができませんでした。私が福島に入って多くのものを見て多くのことを感じましたが、カメラを向けること自体、私にとっても簡単なことではありませんでした。それだけではなく、もともとの私の関心は事故で破壊された福島ではなく、それでも美しい福島の姿にあったということもあります。『奪われた野にも春は来るか』以後、私は時々福島地域に行くようになり、ついに南相馬在住の二人のともだちもできました。西内さんと佐々木さんです。この写真は、この文化会館でスペイン語の講座をなさっていた佐々木さんです。こうした写真を撮るようになったのは、この方たちが孤立していないことを伝えたかったからです。いま福島が皆さんの頭の中にどんな姿で描かれるか、皆さんが福島をどう感じられるのか私にはよくわかりません。しかし、ひとつはっきりと言えることは、福島で作られていた電気は送電線にのって東京にきていたのです。過去にはそうしたかたちで福島と東京は連結していたのです。しかしいまはどうでしょうか。私にはよくわかりません。

いまからご覧いただくのは、2013年にNHKの「こころの時代」という番組で、鎌倉プロデューサーと一緒にこの地域を回り、私の制作について撮影があった時に、私が周辺を撮った写真です。

<スライド>

そして次は2014年の夏に野馬追という祭りを見にいきました。
皆さんもご存知でしょうが、相馬、南相馬が中心となって行われるこの祭りはとても有名なお祭りです。
この写真は南相馬にある民俗博物館で撮ったものですが、左のポスターをみてください。驚くべきことに津波が来て原発事故がおきた2011年にも7月23日から25日まで彼らは野馬追を開催したのです。聞いてみると規模こそは縮小したそうですが、彼らはこれまでの歴史の流れからはずれたくなかったのです。
2011年2012年2013年そして皆さんにみていただいている写真は2014年の野馬追です。私は野馬追が何を意味するのか実はよく知りません。私が見ようとしたのはこの南相馬を中心にした、いまもここに暮らす人たちの普遍的な暮らしの中にあるひとつの姿勢です。

<その後の南相馬の日常のスライド>

この写真は端的に言って私には理解しがたい場面です。鹿島の海岸につながるこの川のわきを車で通ったのですが、つりをしている人がいます。2014年のことです。事故が起きて3年後の人々の頭の中ある原子力発電所の爆発、放射能の問題等が日常生活にどう作用しているかをこの写真に撮りましたが、写真を通していろんなことを考えることができました。農夫が農作物に農薬を撒きトラクターが畑を耕しています。
そして私は南相馬には約1000人の幼児がいると聞きました。これは私が2012年13年に行った時にはなかった南相馬の遊び場です。遊び場全体を大きなテントで覆って室内にしています。でもその外では農作物を栽培してそれを食べています。

この写真は、親しくしてもらっている西内さんが畑で作物を盗んでいるところです。(笑)この方は今年で76歳になられます。自由にふるまっていらっしゃいます。

2014年は、野馬追のあった夏に行き、秋にも行って撮影しました。
この場所は有名ですよね?(原子力明るい未来のエネルギーの看板)あとでもっと見やすく写っている写真がでてきます。

テレビでもよく取り上げられる避難住宅です。避難住宅に暮らしている方たちは小さな鉢植えをよくされています。綺麗な花だけではなくこのように作物を育てて食べていらっしゃいます。

これは浪江の横を通りすぎたところにあります。ご存知でしょうが、事故が起きた原発から最も近い6号線が開通しました。この道路は、正確ではないかもしれませんが直線距離で2〜3キロの場所です。なので多くの人がこの道を通過はしても車を止めて外に出たりはしません。線量計でこの場所を測ってみたら大体90マイクロシーベルトでした。0.3ぐらいまでが正常と言われているのではないでしょうか。

さきほども出てきたゲート(看板)ですが、2014年以来私は行けていないので、この4月にまた行ってみようと思いますが、このゲート(看板)は撤去されたと聞きました。

南相馬を中心にいま五つの大きな貯水池、ダムがあります。

そして2014年の秋から私は少しづつ『家族写真』を撮影しています。家族写真のアイディアは避難された方々を避難住宅まで迎えに行きその方たちが住んでらした家の前で家族の記念写真を撮って差し上げたいというものでした。でも、いままで20家族ほどを撮影しましたが、そこに暮らしてらしたご家族がみな解体されてしまって撮影が進んでいません。これがその家族写真シリーズです。2014年10月、2015年4月に撮影しました。

この写真は一番最近行った時のものですが、小高地域に復活した秋祭りの写真です。今回少しだけ持ってきました。

ここは、小高のとなりの浪江という原発にもう少し近いところにある町です。中に入るにはここの住民であるという証明がないと入れません。

それではこれでスライドショーを終わります。
みなさんあまりに沢山の写真をご覧になって多少混乱されているかとも思います。私が福島に行って、見た、一場面をみなさんに見ていただきました。私の写真を見てみなさんが何を感じられ解釈されまた受け止められるかは皆さんにお委ねします。さきほども申し上げたとおり皆さんが気になることとか私にいいたいことがあれば質問してくださればお話しいたします。みなさんどうご覧になりましたか?


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(司会)いいお話をありがとうございました。みなさん、おつかれさまでした。質問がおありの方はどうぞ。

(質問) 恵生院を精神障害者収容所とおっしゃったのですが、収容所というのはどういう意味でしょうか?

(鄭周河)きっと日本と韓国で使われる単語のニュアンスの違いもあるかと思います。恵生院を私が収容所と呼ぶ理由は、そこにいる人たちが自発的に入ってきたのではなく、家族のために、あるいは社会のために強制されてそこに収容されていたからです。その施設の名前「恵生院」というのは、とてもいい名前ですが私の写真をご覧になっておわかりのとおり施設の中の生活は名前のようにいいものではありませんでした。そこには74〜5人の患者がいて、男女一緒でした。そしてそこの管理者は二人だけです。私が行けば三人です。

(質問)今の韓国にはそうした施設はありますか?

(鄭周河)今は韓国もずいぶんよくなりました。私が撮影したのは1982年から1983年だということをご理解ください。今は精神療養所という名前で各地域に施設がたくさんできています。重要なのは、よくなったにもかかわらず家族と患者たちのつながりはどうかということだと思います。そこが韓国においてはかなり大きな宿題かと思います。

(司会)この問題はまだ質問がおありだとおもいますが何かあればどうぞおっしゃってください。たとえば日本の場合は去年、相模原の事件があって大変問題になっておりますけれども、やはり社会全体の精神障害者に対する差別意識だとか眼差しが変わらない限り決してそれは恵まれた施設になり得ないと思うのですけれども、そうしたことは日本社会にも濃厚に残っているのではないかとおもいます。
はい、次に、もう二つ質問が入っております。ひとつは原発の稼働についてです。このことは日本全国で原発の再稼働が進められようとしていることについて鄭周河先生はどうお考えになるのか。もうひとつは、韓国において原発に対する国民の意識はどうなのかということについて質問がきております。

(鄭周河)再稼働(ためいき)。皆さんの意思にかかっているとおもいます。いますぐには見えず、とりあえずは楽だからそうしたい人がいるのでしょう。再稼働はまるでみなさんが「砂のアイスクリーム」を食べるようなものです。アイスクリームは甘くて爽快ですが、それが砂でできているとしたら、みなさん苦痛に感じられるとおもいます。日本国民が偉大だと思うのは、すべての原発が止まっても5年の間、問題なく暮らしていらっしゃいました。もちろんヨーロッパのドイツのように、自然エネルギーに転換しながら原発をなくす国もあります。今の日本国民のように原発がシャットダウンし全く稼働してなかったにもかかわらず社会的な協議をして原発なしで5年持ちこたえたのです。そうした努力と可能性と力があるのになぜ、危険なエネルギーを使おうとするのかわかりません。聞くところによると政治家はしかたがないといいます。原発に莫大な資金を使い、原子力村(韓国語:核マフィア)は原発が稼働しないと自分たちが生きられないからそういう政治家をまた支援します。でもそれは政治的な考えにすぎないとおもいます。エネルギーはみなさんが使うものです。みなさんが主権者なのです。韓国でも同じです。韓国にも核マフィア(日本の原子力村)がいます。ソウル大学出身の知能の高い官僚たちと一部の腐敗した政治家たちが結託して韓国に原発をもっとつくろうといまも力を注いでいます。韓国は実のところ原子力発電についてそれほど大きな警戒心はありませんでした。すぐとなりの日本でこうした大きな事故が起きたにもかかわらず、ソウルを中心とした大都市に暮らす普遍的な韓国人は甘いアイスクリームにだけ目を奪われていました。それが実は砂でできていることなど考えたくなかったのです。でも、興味深いことに蔚山(ウルサン)、慶州(キョンジュ)、釜山(プサン)地域に地震が起きました。もちろん日本で起きたような強い地震ではありませんでしたが、それでもその地域に住んでいる一部の市民たちは覚醒を始めました。そのため最近ウォルソン1号基の稼働の延長が承認されたのですが、市民の粘り強い戦いの末、最高裁で中止命令を勝ち取りました。地震のおかげです。(笑)こうして韓国でも少しづつ意識が変わってきていますが、上にいる巨大な政治組織や核マフィア(原子力村)たちはあらたに6基の原発をつくろうと強気です。
私は3月11日に釜山にある古隠(コウン)写真美術館というところで『砂のアイスクリーム』というタイトルで、釜山、海雲台から古里(原発のある)に至る海岸沿いを写した写真展を開きます。
古里原発から20キロ圏内には約300万人が暮らしています。古里1号基は1978年に初稼働しました。40年たっています。みなさん、気をつけてください。とても近いですよ。韓国の原発のほとんどが日本海側にあります。18基あります。西側の海には6基です。1000キロほど離れています。地球が回って、韓国の空はまもなく日本の空になります。

(司会)はい。以上がいただいた質問についてでした。ほかに質問がおありでしたらどうぞ。

(会場)私は福島出身で自主避難してきています。
高麗博物館で福島の日常を撮るというテーマでされるということで、今日は来ました。写真の内容とかよりも今日参加している人たちにぜひお願いしたいことがあるんです。私は小高に住んでるんですけれども、福島のコメとか野菜とか6年たっても。スーパーにはほどんど。あの、テレビで福島の桃とかコメとかコマーシャルで流されますけれども、実際にスーパーにはこの6年ほどんど。6年たっても未だに出回っていません。これはスーパーで見つけたあんぽがきという干し柿ですけれども長野県とか他の県のあんぽがきは検査済みというシールを貼っていないんですけれども福島のあんぽがきだけは、こうした検査済みというシールがばっちり貼ってあるわけです。なのでこれだけ福島の生産者の苦しみというのが今でも続いているということなんですね。今日参加している方、もし近くで福島のものが売ってたら他の県のものよりも買っていただきたいとおもいます。

(司会)ありがとうございました。では他に質問のある方。

(質問)アウシュヴィッツ博物館で見せていただいた時の2011年に撮られた写真は、なんとなく死の気配といいますか、人類が滅びていくかもしれないというような予感を持ったんですけれども、その後鄭周河先生が撮られた2013年14年、南相馬その外に入る以後の写真を見ると何事もなかったように人々が生きていく。それを見た時に、ああ、もしかしたら乗り越えていくことができるのかもしれないなあと思ったんですけれども鄭周河先生はそういう日本人を見てどのように感じておられるのか。それから大変失礼な質問ですけれども、韓国の人たちは熱い人たちが多いのでもし同じような事故が起きたらきっとこんな日本人のようにおとなしく収まっていないのではないかなあと私は思っているんですがその辺はどのようにお感じでしょうか。

(鄭周河)あとの質問からお答えします。韓国でもし同じようなことが起きたら、韓国人は多分みんな…私もよくわかりません。想像不可能な…。みなさん、キャンドルデモをご存知ですか?きっとみんな消えないキャンドルを持って道に溢れ出るかとおもいます。
私が福島を行き来するようになって感じることはもう南相馬や相馬や小高や、浪江はまだかもしれませんが、事故以前の姿をなんとか取り戻そうととても頑張っていらっしゃいます。でもみなさんご存知のようにそこに暮らす人たちの気持ちの底には今もやはり不安や怒りやそうしたものが確実にあるのです。なので日常を回復するということは当分は難しいのではないかとおもいます。彼らが日常を回復させるのに一番大切で効果的なことは、みなさんが連帯することだとおもいます。どういう形であろうと彼らを孤立させてはいけないとおもいます。(写真に写ってらした)佐々木さんは本も書かれ、インターネットで南相馬から全世界に向けて自分たちの生きて行く姿を伝えようと頑張っていらっしゃいます。みなさんが今よりももう少し関心を持って彼らを孤立させないよう、関心と愛情を持って連帯されるならきっと日常を回復される時期が早まるのではないかと確信するのです。
こうした話を私も韓国でよくするんですよ。できれば韓国にいる青年や関心を持つ人たちが福島に旅行に行くように勧めています。多くの人は一方ではあまりに何も知らず、一方では無条件怖がっています。私が勤務する大学の英語の先生が私に聞いてきました。沖縄旅行に行ってもいいかしらと。日本は今放射能に汚染されてるっていうけど、と。沖縄は、福島から韓国よりももっと遠いのです。この不安と恐怖はどこから来るのでしょうか?苦痛と連帯する考えが全くないからです。私はそう考えます。同僚は旅行には行きませんでした。

(司会)もうひとかた。

(質問)関連した質問です。ご本人(鄭周河さん)にはさきほどお伝えしているのですが、実は昨日、日本の被爆2世が初めて国に提訴したのです。同じようなことが韓国でも原爆2世、被爆2世がいらっしゃいます。そのことで私も鄭周河さんとお会いしたんですけれどもそのあたりの想いみたなものをお話しいただければありがたいです。

(鄭周河)この問題は歴史に深く関わる話ですよね。
原爆被害者2世と言えば、広島と長崎の2世もいれば、これからは福島にも2世が生まれるでしょう。みなさんご存知でしょうが、広島、長崎の原爆被害者2世は、国家から認定されていません。日本でも韓国でもまたアメリカでもそうだと聞いています。2010年に学生を連れて自転車で長崎、広島紀行に行きました。平和紀行です。8月4、5、6、7に大変大きな平和大会が広島でありました。そこで見た最も悲しい風景は、日本の被爆者2世の会の会長、副会長の二人が旗を持って原爆ドームの前に長い時間ずっと立ち続けていたのです。その旗には「日本原爆被害者2世の会」と書かれていました。周辺には1世の旗はどこにもありません。それは1世には国家から治療費を始め補償が出ているのでそこに来てデモンストレーションをするような理由がないのです。今、韓国でも陜川(ハプチョン)に原爆被害者1世の会があり、2世の会もあります。広島と長崎にいた原爆被害者の10パーセントが韓国人(朝鮮人)でした。そのうちの70パーセントが慶尚南道にある陜川の人でした。
なのでそこ陜川には福祉会館があるのですが、韓国でも被爆2世は国家から認定されていません。実に大きな問題ですが、その理由は、放射能被害が遺伝することを世界的に明らかにしたくないから認定しないのです。
この問題は広島、長崎だけでなく、福島でも事故のために被爆した人たちにとっても2世3世問題は、誰が関心を持ち誰が責任を持つのかとても重要な問題だとおもいます。もし、日本で2世のための問題を国家が認め始めたら、それは韓国の被爆2世たちにも朗報になるとおもいます。そうした市民運動が、福島でこれから起きるだろう多くの問題に大変重要な役割を果たすとおもいます。さきほどいらしていたアウシュヴィッツ博物館の塚田前理事長は(福島で)被爆したために今も顔が赤らみ心臓の調子がよくないそうです。大変な苦痛を受けているとおっしゃってました。塚田さんも75歳か76歳になられますが、このところご友人に亡くなられる方がとても多いそうで、お葬式が間に合わないほどだともおっしゃってました。

(司会)次の方。

(質問)水俣に行かれたことはありますか?水俣についてはたくさんの写真家がたくさん写真を撮っていますけれども、これから福島の写真を撮って行かれるので、そうした写真を見てどうお考えになりますか?

(鄭周河)水俣を撮った写真家の中に世界的に有名なユージン・スミスというアメリカの写真家がいます。彼は日本女性と結婚し、水俣病を起こした側についた暴力団にブロックで頭を殴られて負傷してアメリカで治療をしたのちまた日本に戻って撮影を続けたと聞いています。彼はマグナム・フォトという世界的に有名なジャーナリスト集団に所属していたジャーナリストでした。全世界に多くの影響を及ぼし、私もまた彼の作品が好きです。しかし、制作のスタイルが私とは少し違います。彼はもっと積極的に対象をつかまえますが、私はもう少し迂回して周辺部分に触れようと努力しています。彼は1950年から60年、70年代に制作されていた方で、私は2000年代に立っているためにそうした視点やスタイルの違いが生まれるのではないかと思っています。
私はこの4月にまた福島に撮影に行きます。今回行ったら牛を撮りたいを思っています。みなさんご存知のように、飯館の方に今も牛を育ててらっしゃる方がいますよね。私も何度かそこを訪ねました。今回行って牛のポートレイトを撮ってみたいのです。何を考えているのか。実際、我々人間の過ちで彼らは苦痛を受けています。私がやり遂げられるかどうかわかりませんが、ポートレートを撮ってみます。そしてどこかスポンサーが見つかれば、牛の拓本を作りたいです。大きなクレーンを設置して墨を塗って大きな紙に拓本をとるのです。資金援助をお願いします(笑)。そうしたアイディアはあるのですが、それは資金もかなりかかって簡単ではないので、まずはポートレイトから撮るつもりです。

(司会)2時間半がまたたくまに過ぎたように感じます。いかがでしたでしょうか。大変意義のあるいい講演であったと思いますし質疑も大変楽しくできたと思っております。 あ、もうひとかたですか?

(会場)今水俣のお話しが出たのでつい一言言いたくなったんですけれども、今、連帯と記憶がとても必要だということを実感しますが、私は学生時代水俣に行きました。今もときおりいくんですけれども、結局水俣の記憶を、水俣病が日本の発展の中でどんな犠牲を払ってきたかという記憶がいまやはりかき消されようとしていると思う。それはゆくゆくの福島の姿でもあると思うし被曝者たちの姿でもあると思うのです。で、もしお導きというか何か機会があれば、いま水俣がどうなっているかということもぜひ撮っていただきたいなという希望を述べさせていただきたいと思います。

(鄭周河)ありがとうございます。

(司会)ただいまの希望を鄭周河さんはしっかりと受け止められたと思います。
今日はどうもありがとうございました。








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  1. 2017/04/15(土) 19:32:31|
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